安倍晴明の略歴
安倍晴明は921年(延喜21年)に現の大阪市阿倍野区(摂津国阿倍野)にて、大膳大夫の官にある下級貴族安倍益材(あべのますき)の子として生を受ける。竹取物語に登場した右大臣阿倍御主人の直系の子孫であるとされ、古代から続く由緒有る家柄に生まれている。
幼い頃から陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び天文道を伝授されている。天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)に有った39歳頃から占いの才能を発揮し評価を受け、その後占いや陰陽道の儀式によって名を上げていく。
出世からは縁遠かったが陰陽師として名声を高めたことで、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官を歴任し、位は従四位下にのぼった。その後、天文博士や陰陽助(陰陽寮の次官)に晴明の二人の息子任ぜられるなど、安倍氏は一代の間に陰陽道の家大家となっていった。
安倍晴明の伝承
安倍晴明は天文を読み、思うがままに式神を操る陰陽道で最も優れた力を持つ人間として描かれています。
若いころから鬼の姿が見て、法力の力で生き物を殺したり、 鳥が話す言葉が分かったり、龍宮城に行ったことがことがあるなど、人知を超えた力を持っている存在として現在に伝わっています。
また、安倍晴明が京の都の北東(鬼門)に住んでいたのは、都に侵入する鬼を防ぐ役割を担っていたからだとも言われています。現在、安倍晴明が居を構えていた場所は、晴明神社となっております。
陰陽師とは?
陰陽師とはどういった存在なのでしょうか?元々、中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって吉凶を占う方技(技官)として配置された人をさしました。どちらかというと占い師としてのイメージが強く、陰陽師が法力を使う人間として認識される事になったのは安倍晴明の影響が強いと言えるでしょう。
陰陽師とは?
960年(天徳4年)に時の村上天皇より占いを命じられるなど、出世では遅れを取っていたが、占いの能力についてはそのころから貴族社会で高く評価をされていました。その成果から天文博士に任命され、一躍評価を高めるきっかけとなりました。
その後、花山天皇に寵愛され、占いや陰陽道の儀式で名を広めていくことになります。花山天皇の退位後には一条天皇や藤原道長の信頼を集め陰陽師として名声を極めることになります。
安倍晴明については「古事談」「大鏡」「古今著聞集」「今昔物語集」「日本紀略」「権記」「平家物語」「大江山絵詞」などに占いについての逸話が残されています。